名泉市
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なずみし 名泉市 | |||||
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名泉川の風景 | |||||
名泉市章 名泉市旗 2000年(平成12年)4月1日 制定 | |||||
国 | 日本 | ||||
地方 | 中部地方 | ||||
都道府県 | 足柄県 | ||||
市町村コード | 48099 | ||||
法人番号 | 80000202820XX | ||||
面積 | 333.28km2 | ||||
総人口 | 90,391人 (推計人口、2019年10月1日) | ||||
人口密度 | 271人/km2 | ||||
隣接自治体 | 粟里市、東松川市、錐鮫市 | ||||
市の木 | ユリノキ | ||||
市の愛称 | 願いの街 | ||||
名泉市役所 | |||||
市長 | 松館秋介 | ||||
所在地 | 〒024-0130
足柄県名泉市嘉多芝台1丁目3番1号 |
出典: フリー百科事典『ウィキクロペディア(Wikicropedia)』
名泉市(なずみし)は、足柄県の南部西寄りに位置する市である。
目次
概要
粟里市の東に位置し、三日月型に近い形をしていて、粟里市から続くベッドタウンである。南部と北部に分かれており、南部は古い歴史を持つ高級住宅街で、北部は現代になって栄える別荘地である。
地理
位置
名泉市は中部地方の南部東寄りに位置する。足柄県内においては南部西寄りに位置するが、県内で用いられる地域区分では「中央地域」に区分されることが多い。 その市域は東西が19.21km、南北が35.22kmで、面積は333.28km2と、足柄県内では三番目に小さい自治体である。 西は粟里市との境に名泉川、南部の大部分は西の粟里市から東の錐鮫市まで続く沖積平野が占める。北部は前山山脈の一部であり前山断層が南部と北部の境目となっている。 河川は南北に伸びており、名泉川と松館川がある。
南部
南部は平野が広がっており、松館川がその中心を流れている。平野はおおかた水捌けのいい土地でできており、住宅が立ち並ぶ住宅街となっている。 南部は北部に近い位置にある七郭荘町、南部中央に位置する松館町、沿岸部を占める名泉浜町の三つを中心とした三区画に分けられることが多く、山手に行くほど地域ブランドが高いとされている。
北部
北部は粟里市から連なる別荘地の一部であり、特に都市部から離れた名泉市新間藤町は人気の避暑地として知られる。南端の前山断層の東部はシルル紀〜ペルム紀の地層があり、過去にいくつか新種の化石が発掘されたこともあった。 前山山脈の和巳山最難関ルート鍼金道の登山口があり、登山家達が稀に挑戦しに来ることもある。
歴史
名泉市の南部は、もと江戸時代旧松館藩領であった。旧松館藩は名泉(現名泉市南部)と錐鮫(現錐鮫市)からなる42万石の藩で、名泉は宿場町として、錐鮫は茶をはじめとした農産品の生産として栄えていた。
1871年(明治4年)には廃藩置県で足柄県の管轄下におかれる。
1900年代前半に足柄県の近代化計画により名泉は粟里のベッドタウンとして開発がはじまった。開発は臨海部から行われることとなり、橋馬タウンをはじめとするいくつかの住宅街の完成に至った。
しかし、戦争が近づくにつれ臨海部は工業化が進む。武器製造が行われていたために戦時中は空襲による少なくない被害を受け、さらには1940年代の度重なる災害によって住宅街は軒並み崩壊してしまった。
1940年の市制施行により名泉と前山山脈東部を併せて名泉市が制定。ここで名泉と錐鮫は完全に分断されてしまう。
1948年、終戦後も名家として残存していた松館家の当主・松館和正により名泉市の復興計画が立てられる。前述したとおり深刻な被害を被っていた名泉を「羨望の町」となる高級住宅街として生まれ変わらせようという計画であった。開発にあたって住宅建設をはじめ様々な規定が設けられた。この時点で松館町と七郭荘町で敷地面積の最低基準等の一部規定に違いがあったことから、七郭荘町と松館町の区画分けは意図的であったと考えられる。
1975年、高度経済成長も終盤の頃、臨海部の工業地帯は県による再開発の矛先となった。そうして完成したのが名泉浜ミーアタウンである。ミーアタウンは最高で24階もあるプレハブユニット式の高層団地で、70年代のメタボリズム・住宅の工業化の産物である。
高級住宅街名泉としては不自然なまでに大衆的住宅だが、太平洋をバックとして全く同じ容貌の高層建設物が立ち並ぶ様子は密かに人気がある。元来のイメージとはずれているものの、現在では名泉を代表する顔の一つと言って差し支えないだろう。